プロフィール

このページについて

一般的なことを書いてますが、 人となり性格その他については日記を過去まで漁るのが確実かもしれません。

まぁ、よくあるマスタベーションページです。

個人情報

なまえ
長瀬 秋宏(NAGASE, Akihiro)
普段はひらがなです。Aki と名乗ることも多いです。
本名は別にありますが、本名からこのサイトにリンク張ったりするのはご勘弁ください。
れんさくさき
aki@nekoruri.jpまでどうぞ。
必要があれば、0xCE758B78のPGP/GPG暗号化メールを使ってください。
しゅべつ
日本人、男、B型。
おしごと
某大学 大学院 修士課程に在籍。
某中小企業でネットワークエンジニア兼社内SE。
プライベートでは nekoruri.jp その他のサーバ運用。
すまい
東京都千代田区
すきなもの
ねること。たべること。
るりるり
ざゆうのめい
なんとかなるさ、ならなきゃなるようにするまでさ。
ネタを愛し、荒らしは放置。
奇跡とは、気合いと根性で起こすものである。
「これから起きることはすべて偶然、起きたことはすべて必然」(『それゆけ!宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』)
「極限まで自分を追い詰めて…… 死ぬまで信念を貫き通して……妥協はせず……自分という存在の価値を一片も譲らず……あらゆる痛みに向かい合って……牙を剥いて……乗り越える……それがひとりで決意するということ……」「一人で生きるということ」 (『ジューンブライド上等。』 参考: まいじゃー推進委員会)

取得資格

過去の経歴

黎明期

東京都千代田区外神田という知る人ぞ知る住所を本籍として1980年に生まれる。

3歳頃に現在の居住地、神田橋のたもとに引っ越し。
KDD や NTT を抱える大手町と橋一本という、これまたでき過ぎた場所である。 ちなみにこの引っ越し直後、妹が障碍を持つようになるoが、あんまり触れないことにする。

当時は1976年に発売された TK-80 に端を発するマイコンブームの真っ盛り。 趣味雑多な父親のもと、とりあえず要らなくなった電気製品をネジ一本にいたるまで分解したりしていたらしい。 また、毎週日曜日のパソコンサンデーという番組を気に入って見ていたらしい。 ちなみに、ここらへんはあくまで親の証言で本人に記憶は一切ない。

出会い

1986年のある日、父親がFS-4000を買ってくる。 これは最近なぜかまたはやりだしている MSX の一機種で、 初めてワープロ機能を内蔵した機種であったらしい。 熱転写とインクリボン式が可能なプリンタも内蔵していた。 この MSX との出会いから全てが始まったと言える。 実は FS-4000 はいまだに記念品として家に残っていて、 マニュアル保証書から替えインクリボンにいたるまで残っていたりする。

MSX では、エルギーザの封印と信長の野望全国版に多少はまった他は、 ファンダムに乗っているプログラムをちょこっと改変したりして遊んでいた。 あと、どこから沸いてきたのかマシン語入門というソフトもあって、 今から考えると多少感慨深い。

さらに、1988年に 3.5inch 2DD のディスクドライブが投入され、 DISC-BASIC でちょこっと遊んだりしていたが、 DISC 拡張のBASICリファレンスが行方不明になって以来しばらくコンピュータから遠ざかることになる。

ついでながら、飽きた頃(1989年)にデータレコーダーがうちに来たのはネタというべきか。 さすがに FDD で慣れた身にはありえない速度だったんだけども。

さて問題は、MSX があるからという理由でゲーム機を買ってもらえなかったことで、 秋葉原の店頭でソニックを半分まで進めて見たり小学校の友人の家でマリオをやったくらいしかコンシューマゲームの経験が無い。 結局、今でもゲーム全般が苦手なのはこのせいである。好きは好きなんだけど。 ただし、ゲームボーイだけは後で買ってもらえることになったが、 ゲームも数えるほどしか持っていなかったのと、 ロットが悪かったのかすぐに液晶が両端から消えていったのですぐにやらなくなったというのは書いておく。

この間、うちの向かいにゼロワン・ショップが出来る。
当然のごとく入り浸り、Macintosh の世界に触れる。
GUI ってのはいいものだ。

98の世界

1990年、ついに PC-286V がうちにくる。 リンク先を読んでもらえれば分かるように、 EPSON 互換機時代を作った名機。 ただし、DOS に掛けられた NECプロテクトのため、 SIPというEPSON謹製の解除プログラムを通す必要があった。 あと、鍵も特徴的だったね、鍵。これ重要。

この頃秋葉原にあったNECのショールーム C&Cセンターの、商用アプリの体験コーナーに連日入り浸り、顔なじみになっていた。 何をやっていたかといえば、いろいろなソフトでチュートリアルをやってみたりといまだに何がしたかったのかよくわからない毎日だったが、 きっと何らかの蓄積にはなっているんだろう、きっと。 ちなみに、この建物はゲーマーズでじこビルを経たあげく、リバティにまで成り下がっている。嗚呼時代の変化。

当時メインで使っていたのがデスクUPというワープロソフトで、 恐ろしいことにメインメモリ 640KB のみの時代にウィンドウ系GUIかつ WYSIWYG に近い環境を実現していた。 しかも FD 2枚ていうか2枚目はほとんど VJE-βの辞書ファイル。 揚げ句の果てにはネットワーク(ただしNetWARE)にも対応。 恐るべしはダイナウェア。 当然、一太郎Ver.3の黒い画面とかちゃんちゃらおかしいわけで。

当時のプリンタは、ドットインパクトプリンタの EPSON VP-1000。
これも安定したプリンタで、この前秋葉原のジャンク屋に積まれているのを見て感慨にふけることしばし。 あの賑やかな音はもう聞けないのです。

Mind

その次の転機はMindとの出会い。

たしか I/O だか Oh!PC だかに連載で載った日本語プログラミング言語Mindにはまる。 これはスタック系人工言語と日本語の相性が良いことを利用した言語系で、こんな感じで記述できる。

世界に挨拶とは、
    「こんにちは世界!」を 表示すること。

メインとは 世界に挨拶すること。

で、この雑誌連載にMind-NETの紹介が載っていて、 パソコン通信にあこがれるようになる。

連続紙を大量消費してMind講座を印刷して見たりしたのもこの頃。

1200bps

1991/08 のハムフェアで 1200bps のモデムをついに購入。

そして、Mind-NET デビュー。
自己紹介にはMindのソースを付けるという慣習があったので、 なんか色を替えたりして表示するごくごく簡単なコードを付けた。 千代田区の小学生というのには相当なインパクトがあったのか、 いろいろとレスをもらった記憶がある。

でもって、BBS電話帳を眺めながらあちこちの草の根を見て回る。 でもほとんど書き込みはしてなかったり。 最終的には東京BBSやZOB Stationあたりを見るようになる。 mmm って格好いいと思った当時。

この頃、アマチュア無線上でパソコン通信を行う「パケット通信」が盛り上がる。 当然、うちもTNC201で参加。 あまたあるホストをめぐって書き込みが流れてくるFWD-NETに感動する。 でもって、PRUGに尊敬の念をいだく。 寺子屋システムに興味を持ったのもこの頃。 関連本を読み漁ったものの、どこで引っかかったのか運用までには至らず。 たぶん、このときに寺子屋に参加していたらもっと変わっていたんだろうなぁ。
ちなみに、寺子屋システムってのはアマチュア無線の電波上に TCP/IP を乗っける実装系のことで、 NetNews のツールが yomi, kaki, soroban だったことからシステム全体を寺子屋と呼ぶようです。

発展期

1992年、PC-9801Tが投入。
これは私が「NECが自分のために作ったシリーズ」と勝手に呼んでいる系統の最初のマシンで、 当時出始めたラップトップとデスクトップの中間というマシン。 今でいえば、3スピンドルノートといった位置づけで、気軽に動かせるデスクトップを目指したマシンだったんでしょう。 正直、使う人を選ぶものの私はかなり気に入ったマシンの一つ。
この頃は PC-286V と電話が離れていたので、 9801T を電話のところまで持っていってモデムに接続する、というのをやってました。 その後、電話線を居間まで伸ばして居間に常設するように。
ちなみに、さいしょはまいとーくで、その後草の根系は WTERM に。

このあたりは、延々とA列車で行こうIIIにはまっていて、 黒字経営に持っていってしばらく資金稼ぎのために24時間立ち上げっぱなしとかやって親に怒られたりしてました。 生涯一番はまったゲームを聞かれたらA3以外に考えられないです。 ATLAS とかもおもしろかったけど、あとはトキオ 東京第24区あたりもかなり好きだった。 そんな感じで暫くはARTDINK狂い。

Wizard98 とか WizardV3 とか面白いと思ったのもこの頃だったかな。 まぁ、ソフトウェアの性格上深くは述べません。 ただWizard98 が N88-BASIC だったのには当時物凄い勢いで感動し、今でもたまにネタにしてたりします。 でもプロテクト外しは技術的には面白そうだと思いながら理論だけ読んで、 結局自分ではやってみなかったなぁ。 たぶん AIII やってるほうが面白かったせいだと思う。

さて、草の根をいろいろ見て回ると、やはり気になるのが大手商用ネットワーク。
そして 1992/08、ついに加入しました、NIFTY-Serve。
当初の目的は Mind 関係のフォーラムや会議室で普通に本名で書き込みしてました。 オフ会とかもあって行きたかったんだけど、 どうしてもどうしても都合が合わず、実家のすぐ近くでやっているにもかかわらず参加できず。今でも悔やまれる。

NIFTY に入ってその後ライフワークになったのが、 いけてるオンラインソフトウェア探し。
VEM486 を見つけたあたりから PC-9801 のシステムにどんどん詳しくなり、 最終的には 通常利用環境(必要な常駐物がちゃんと居る環境)でコンベンショナルメモリ640KB全空けを達成。

やっていることは単純で、まず VEM486 は自力で UMB に常駐、 command.com、MSCDEX、ATOKあたりをツールを使ってコンベンショナルメモリに強制移動。 さらに UMB とコンベンショナルメモリをくっつけて他の常駐系もUMBに押し込む。 ここでお世話になったのが REX で、REX 対応の常駐物を EMS に保存し必要時にメモリに展開するという常駐物ランチャ。 最近でいうと、TTBaseがとてもそれに近いです。
こんなところでまとめてるのは漏れ。

で、実際には目的に応じて幾つかの CONFIG.SYS/AUTOEXEC.BAT の組を用意し、 HSB で高速再起動を掛けるというのをやっていた。

で、メモリをそんなに空けて何がしたいかといえば、 そりゃ air craftですよ。
air craft から RTNM 読んでさらにそこから PADMES 経由で VZ で発言作成。 ここまでやろうとすると550KBくらい空いていないとできません。 ていうか、air craft だけで450KBくらい使っていた気がする。
K2さんの発言ではないけど、 色々なソフトウェアをごにょごにょ組み合わせるのが一番楽しかった時代かも。

この頃はまっていたのはぶろっくでポン!略してぶろポン。
ブロック崩しに重力加速度や魅力的な特殊ブロックを持ち込んだ名作。
ていうか、ぶろぽんをエディットでぽん(りゃくしてぶエぽん)で、 玉数無限にしてびーーーーーーーーーーーーーーむっ!とかやるのが快感。

1995年にはいよいよ次のマシンとして、 IBM PS/5530U を T-ZONE の店頭オークションで二台落札。 確か片方が32kでもう一台が35kぐらい。 こいつがまた MicroChannel という IBM 独自アーキテクチャの困った代物で、 Plug and Play 対応なのはいいんだけど、 BIOS パラメータの変更にリファレンスディスクというソフトウェアが必要で、 何か機器を追加削除するごとにリファレンスディスクから BIOS の構成登録をしてあげないといけない。
片方には FutureDomain (現在はAdaptecが買収) の SCSI カードを乗せて、 HDD と CD を読めるようにして、さらには TI の 486互換チップまで載せ変え。 が、そこは DOS/V 黎明期、結局あんまり使うことなく学校行き。 やっぱり、家の環境が揃いおわってたというのが大きい。

さて、いろいろあったあげく中3でコンピュータ部の部長にさせられたのがこの時代の最後。 ちなみにうちは中高一貫なので、本来ならばまだ当分先のはずだったのだけど、 半年やってやめさせていただきました。 新校舎が出来たりして部室が一時的になくなったりアングラ的に活動して見たりいろいろやったあげく、 まぁ、教室を借りた物理の先生方とは仲良くしてました。 別に物理だけじゃなくて学年の先生とは分け隔てなく仲良かったんですが。

通信全盛期

高等部になってどんどん落ちこぼれる中、 1996/07 にアニメフォーラムに書き込みをはじめる。

ちょうどその数日前後で同い年の奴が参加してきて、 一緒に暴れる。で怒られる。まぁ若かったということで。 結局、その会議室でであったメンツとはいまだにFF11で一緒に遊ぶ仲が続いてます。

課金\20,000とかを叩き出したのもこの頃で、まぁ、いろいろ。
つないで未読落として読んで書いてつないで上げるとすでに未読があるというような状態だったし。未読すぱいら〜る!
このあたりで高速モデムに手を出し、BOCAの9,600bps、14,400bpso,28,800bpsを経て、 Microcom の 57,600kbps に落ち着く。

そしてこの1996年、ついに最終兵器 PC-9821Xt/C10Wが投入。

このマシンはかなり逝っちゃったマシンで、 HDD インターフェースは SCSI のみ!PCIも搭載!タワー筐体! という国民機にあるまじきスペック。
箱も、机から落としても壊れないようながちがちの設計。素晴らしい。
で、プレインストールでWindows3.1 が入っていたんだけど、 あまりの不安定さにそれは無かったことにして、 とても速いDOSマシンとして最後まで使われることになる。

で、さらに翌年 1997年の正月に初の自作機投入。
で、こいつに NT4.0 を入れる。もうね、Win3.1 とか Win95 の不安定さに比べてこの固いシステムはなんなのよ、と。
Win9x 嫌い、ここに始まる。

正月にもう一つ、AirCraft97 のリリース。
air craft の Windows 版としてリリースされた通信環境。 色々組み合わせて環境構築するという面はほとんどなくなってしまったものの、 ソフトウェアのゴールは非常に高く、 そのコンセプトに強く惹かれる。
オンラインソフト繋がりで、PyxisをFGALで見つけたのもこの頃。 当時、FD に変わる Windows 上の環境を探していてついに見つけた。 軽快かつ十分な機能を持つファイラー。いまだに布教して回っている。 Pyxisの良さは機能一覧とかではわからなくて、 そのアプリケーションとしての安定性デザインバランスにあり。

そんななか、知り合いがインターネットにウェブサイトを開設。たしか1997くらい。
まだ自宅から環境を持っていなかったので、 当時LAOXザコン館最上階にあったインターネット体験コーナーから落書きする日々。ていうかごめんなさい。

まだインターネット?ふーんという感じで興味も無かったんだけど、 PC-VAN の www gateway から見て見たりとか色々試した。 まぁ、この頃はまらなかったのは運が無かったんだろうな。 でも、深夜にやっていた C|NET の番組では夢を感じさせられた。
その後、9821Xt に Win95 を入れて、一応自力でダイヤルアップできるようになり、 Q2系ISPのZZZにつないで FIRJから色々アカウント取って見たりとか試す。 うーん、おもしろいぞ、と。

うぇぶ

記録に寄れば1997/08、このサイトができる。
ちなみに、今の名前「Silphium」になったのは1997/10

まぁ、仲間うちだけの隠しページとかいろいろメタに遊びつつ、 MSのサイトからWebテクノロジをいろいろ引っ張って来たりするようになる。 Light Effect にはまったのもこの頃。なんかまた最近注目している人がいて面白い。 まぁ、当時のスペックだと処理重かったからねぇ……。

大学

というわけで、某大に進学決定。
以後はダイジェストで。

ここからネットワークに繋がっていないと生きられない生活になる。 自分にまつわる全てのデータはネットワーク上に存在し、キーワードはシームレス。 どこにいても自分の情報を自由に処理できる。 研究室の IRC チャンネルにも常時参加、常に人と繋がる生活。

© 長瀬 秋宏 1997-
aki@nekoruri.jp
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